多摩
Last-modified: 2015-07-17 (金) 18:38:38
No.040 |
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| 多摩(たま) | 球磨型 2番艦 軽巡洋艦 |
艦船ステータス(初期値/最大値) |
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耐久 | 25 | 火力 | 14 / 39 |
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装甲 | 10 / 29 | 雷装 | 24 / 79 |
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回避 | 36 / 69 | 対空 | 13 / 49 |
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搭載 | 2 | 対潜 | 19 / 59 |
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速力 | 高速 | 索敵 | 8 / 39 |
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射程 | 中 | 運 | 10 / -- |
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最大消費量 |
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燃料 | 25 | 弾薬 | 25 |
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搭載 | 装備 |
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1 | 14cm単装砲 |
1 | 未装備 |
装備不可 |
装備不可 |
改造チャート |
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多摩⇒多摩改(Lv20) |
図鑑説明 |
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球磨型軽巡洋艦の2番艦、多摩だにゃ。 水雷戦隊の旗艦として、ご奉公*1するにゃ! にゃ?多摩って名前だけど、猫じゃないもん! |
※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。
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| | CV:佐倉綾音、イラストレーター:UGUME (クリックするとセリフ一覧が開きます)
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セリフ | CV:佐倉綾音、イラストレーター:UGUME | 入手/ログイン | 軽巡、多摩です。 猫じゃないにゃ。 | 母港/詳細閲覧 | 何にゃ。 | あっ、思わず手が。じゃらすなってば! | あはは。やめてよ。くすぐったいにゃ〜。 | 母港/詳細閲覧 (梅雨) | 雨の日は、お部屋の中で丸まっていたいにゃ…なんか眠いにゃぁ……おやすみにゃ… | 母港/詳細閲覧(夏) | 夏にゃぁ〜…ちょっと暑いにゃ…暑くてひっくり返って寝たくなるにゃ……にゃぁぁ… | ケッコンカッコカリ(反転) | 提督、多摩をちゃん付けで呼ぶのはやめてほしいにゃ。 なんか… 違う感じがするのにゃ… | ケッコン後母港(反転) | おつかれにゃあ。 多摩と一緒にゆっくり休むにゃん。 にゃぁ〜。 | 編成 | 多摩、出撃するにゃ。 | 出撃 | 多摩、出撃するにゃ。 | 多摩の手も借りたいって?しょうがないにゃあ。 | 遠征選択時 | にゃあ♪ | アイテム発見 | にゃあ♪ | 開戦 | そこにゃ! | 航空戦開始時 | | 夜戦開始 | 撃つにゃ! | 攻撃 | そこにゃ! | 砲雷撃戦、用意にゃ! | 連撃/カットイン/夜戦攻撃 | にゃあぁ!! | 小破 | にゃにゃ!? | にゃ! | 中破/大破 | やられてしまったにゃ。にゃあ…。 | 勝利MVP | 多摩が優秀?にゃあ、ただ闘争本能が高いだけ…にゃ。 | 帰投 | 艦隊が帰投したみたいにゃ。 | 補給 | これで大丈夫にゃ。問題にゃい。 | 改装/改修/改造 | これで大丈夫にゃ。問題にゃい。 | いい感じだにゃ。 | にゃあ♪ | 入渠(小破以下) | おやすみにゃ。 | 入渠(中破以上) | 多ぁ摩は、ドックで、丸くなるぅ…。にゃん。 | 建造完了 | 新しい艦が出来上がったにゃ。 | 戦績表示 | 提督宛の手紙にゃ。 | 轟沈(反転) | 沈むにゃ…お別れにゃ | 時報 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 放置時 | |
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ゲームにおいて
- 2013年12月11日のアップデートにおいて追加されたクエスト『「第5艦隊」を編成せよ!』に必要となる。
- (能力的に)クセモノ揃いの球磨型で現状唯一の「普通の軽巡」ポジション。
- 球磨型に限らず、軽巡洋艦全体で見てもこの「普通の軽巡」ポジションは結構オンリーワンな個性だったりする。特長が無いのが特徴。
- 姉は総合力トップクラスのエリート、妹達は雷巡という強みがあるのだが、多摩にはそういう際立った部分が無い。猫好きは愛を注いであげよう。
- 確かに数字だけ見れば「弱い方」などと言われても否定はしづらいのであるが…仕様上、夜戦での攻撃力はなんと138を誇るまでに成長する。*2
- 改二やネームシップ補正がなく燃費や最終的な能力値が「普通の軽巡」なのは多摩と由良さんだけである。(あとは例外だけどノーマル木曾さんぐらい)
- ドロップ範囲が非常に広く、1-1から5-3までほとんどの海域のほとんどの場所でドロップする。
小ネタ
- 三菱造船長崎造船所にて1920(大正9)年2月10日進水、1921(大正10)年1月29日竣工。
- 就役してすぐ、シベリア出兵(1918〜1922)に龍田や球磨とともに従事した。
軽巡で参加したのは天龍型と球磨型だけである。ちなみに木曾は撤兵時のみ参加。
- 1925(大正14)年、日本で客死したアメリカのバングロフト駐日大使の遺体を米国まで礼送した。
- 後に、アメリカで客死した日本大使の遺骨を米国から礼送してきた艦に対し木曾が礼砲を打っている。
- 戦争中は第五艦隊第21戦隊に所属。レイテ沖海戦で艦隊ごと動員されるまで、北はアリューシャン・千島・樺太方面、南はトラック諸島からカロリン諸島まで幅広く活動していた。
- 第21戦隊の仲間としては第五艦隊旗艦の那智に加え、足柄、木曾がいる。
- 艦歴が古い影響で最前線ではなく輸送任務が主だった為、アッツ・キスカ島作戦以外で目立つ戦歴はない。
- 名高いキスカ島撤収作戦で、1回目の出撃では「多摩の機関では心許ない」ということで泊地で待機させられた。
1回目は突入断念し、2回目の出撃では木村昌福艦隊の「督戦」として、河瀬四郎第五艦隊司令長官ほか司令部一同を載せて出撃している*4。
映画などでは省略されてるので意外に思う人も多いそうな。
- そのかわり、北方から南方まであちこち輸送に駆けめぐった縁の下の力持ちである。
猫の手も借りたいとはこの事か温度差の激しいのは猫にはよろしくn…猫じゃないにゃ
- 1944年8月末から戦没する同年10月末の期間には、かねてより輸送作戦に出向いていた第一一水雷戦隊に転属し、戦没した長良に代わり旗艦を務めたこともある。
この一一水戦とは連合艦隊直属の錬成部隊であり、その特性ゆえに最後に残った水雷戦隊である。
しかし新型駆逐艦(という名の戦時急造艦)の育成をするという名目の部隊ではあったが、訓練だけをやっていられる戦況では勿論ないので逐次輸送作戦や戦闘などに投入され、そのせいで入れ替わりも激しかった。*5
歴代旗艦は先輩に龍田、長良、後輩に酒匂と艦これ的に知名度の高いメンツが並ぶ。松型駆逐艦が来たら多摩幼稚園が組めるにゃ。
- 前述の輸送作戦には木曾も参加しており終了後は元の艦隊に戻った。しかし多摩は一一水戦に残ったため、これが開戦からおよそつかず離れずの行動をしていた二人の今生の別れとなった。
- 以上のように長い期間と幅広い範囲で活動をしていたため改装やその計画も多かった。練習艦化や重雷装化計画の初期候補に挙げられたり(両者とも実際に改装がなされたのは北上、大井の二隻)、任務中に幾度か損傷を受け改修を施されていたり、南方諸島に出向いた時は大幅な対空改修を受けてたりもする。
潜水艦隊の旗艦になる計画もあったり…由良みたいになってたのかにゃ?
- 最終的な改装では主砲を二基下ろし高角砲や対空機銃、電探などの増設を施された。
なお、防空巡洋艦になった軽巡と異なりこちらは改修後も主砲やカタパルトを残しているため、防空巡洋艦になったわけではない
- そもそも「防空巡洋艦」という艦種自体公式には存在しない。基本的には主砲の代わりに高角砲や電探、対空機銃を山盛りにした対空特化の巡洋艦や駆逐艦をこう呼んだのである。「重雷装艦」とか「潜水空母」の呼称みたいなものだにゃ。
- 天龍型や球磨型を始めとする軽巡を防空巡洋艦化する計画は開戦前からあったのだが、艦歴の古さ*6や拡張性に難があり「せっかく改装してもすぐ旧式化するのでは…」という懸念が強く、
実現されたのは損傷が大きかった上に実験的な意味合いの強い五十鈴や、そうした試行錯誤を元に建造された秋月型駆逐艦のみである。
- 艦長リストには百武源吾*7、及川古志郎*8、嶋田繁太郎*9といった錚々たる面々が。「海の辻政信」といわれたあの神重徳*10もいたりして。
山本長官と喧嘩してた人間ばっかじゃねぇかとか言うな
多摩は大人しいけどひょっとして猫かぶってるんだろうか
- 「ご奉仕するにゃ」「しょうがないにゃあ。」「猫じゃないもん!」「これで大丈夫にゃ。問題にゃい。」と色々と突っ込みどころのある台詞が多い。元ネタ全部分かる提督はほぼ間違いなくおっさん
- この猫ネタと球磨とのコンビネタなど、持ちネタは多め。動物ネタは時代を選ばない。
- 「なのです」掛け軸の足跡は多摩のものらしい。ということは、多摩の素足って…?艤装だから猫じゃないにゃ
- 前出の百武源吾は、艦長時代に生まれた末娘に「多摩」と名付けている。
- でも史実でコンビだったのは木曾であり、球磨ではない。凸凹コンビにもほどがある。ナゼダクマー
- 1922年に連合艦隊が常設された際に球磨や大井と3人で第3戦隊を組んだことはある。すると今度は北上だけが多摩と艦隊を組んだことのない事になってしまうが。モータマッチーナカマハズレニスルノヤーメテヨー
なおこの時北上は後に語り継がれる華の二水戦の旗艦をやっていた。こっちのほうが良かったにゃ
- この前後に金剛型姉妹が二度に渡って務めていたことからも第3戦隊はかなり有力な戦隊と言われており、連合艦隊設立時のそれといえば相当な名誉だった事は間違いない。
でも1921年から1933年に解隊するまでの三代目第3戦隊は、北上以外の5500t級軽巡のみんなと夕張がやった事があるのは内緒。初代連合艦隊なのが大事なんだにゃ。
チョットミンナホントニヤメテヨー*11
- 「水雷戦隊の旗艦としてご奉仕するにゃ」と言っているが、旗艦にしても随伴にしても水雷戦隊にいたことはあんまりない。戦時中のほとんどを過ごした第五艦隊でもだいたい21戦隊所属で、こちらに所属する第一水雷戦隊にいた期間は短かった。
ちなみに北上は1921年に第二水雷戦隊、木曾は1937年に第四水雷戦隊の旗艦になっている。多摩は最後の最後に第一一水雷戦隊の旗艦になったが、大井はマル三計画で第六水雷戦隊旗艦になる予定はあったものの実現せず(この時に多摩と北上で戦隊を組む計画もあったがこれも無くなる)、
球磨に至っては計画も無かったということを見ると多摩は結構幸運だったのかもしれない。イクラナンデモアンマリダクマー
- 21戦隊所属の2隻はどちらも北方迷彩が施されていた。多摩の艤装の塗装も実はアリューシャン風味。
- 名前の由来はもちろん多摩川。山梨県から東京都を通り、神奈川県との境を流れる一級河川である。多摩ちゃん意外と都会派。しかし首都圏の一級河川としては珍しく多く自然の姿が残っている。つまり純朴でもある。
- 艦内神社の分祀元は”武蔵総社”こと東京都府中市に在る大國魂神社。多摩乗員も参拝に行っていた模様。*12
総社だけあって立派な神社であり、周囲も摩天楼東京都のイメージからは想像出来ないくらい緑豊かな土地である。東京、特に多摩地区に来た折にはぜひ参拝して欲しい。
- 因みに生まれは三菱造船(現三菱重工業)長崎造船所。
同郷には妹の木曾の他、霧島や日向、武蔵、川内、隼鷹などが居る。
同造船所は現代でも、こんごう型やあたご型などを始めとする大型艦艇を多数建造している由緒正しい造船所であり、
そこで建造された多摩ちゃんも、最上級の血統書付きと言えr「猫じゃないにゃ」
- ちなみに三菱長崎謹製*13である為かタービン翼に新規軸の不銹鋼製の物を採用し試験を行っていた。それまでの艦のタービン翼は強度に劣る燐青銅が用いられていた為折損事故が多発していた為である。
この試験運用が成功したので他の球磨型や以降に生産された艦などにもこのタービン翼を採用するようになった。
- 微妙に誤字られる。割と見るのが「たまたま」や「弾」と打とうとしたら「多摩多摩」、「多摩」となってしまったり、逆に球磨と混ざって「多磨」となっているもの。しかし後者は「多摩」の異字表記として古くから存在しており(府中市多磨町という地名にその名残が見られる)、
全く無縁の間違いではない。矢作とか木曽みたいな感じだにゃ*14
- ついでに言うと多磨町には多磨霊園という大きな公園墓地(東京都による公営)があり、そこには東郷平八郎*15、山本五十六、古賀峯一の3名(3人とも元帥海軍大将並びに連合艦隊司令長官経験者)が眠っていたりする。つくづく海軍と妙な縁がある名前である。
因みにそれ以外にも、栗田健男(第二艦隊司令長官)や平賀譲(夕張ほか多数の艦艇を設計)、水城圭次(元神通艦長)などそうそうたる顔ぶれ。陸軍さんになるともはや書ききれないくらい。
- 日本初の公園墓地として開園*16したこの多磨霊園。総面積128万平方メートルという、おおよそ東京のど真ん中とは思えない凄まじい広さであり、軍人以外にも数多くの著名人が眠る地でもある。
公園墓地とはいえこれほど広いところは数えるほどしか無い。あまりに広すぎて地図を見ないと簡単に迷える。というか目標物が区画数字くらいなので見てもわりと迷える。
- エンガノ岬沖海戦で、日向や五十鈴らとともに千歳と千代田を護衛していたが、被雷して速力を発揮できなくなった。
心配した五十鈴が救援のために近づくと、多摩は千代田の救援優先を依頼し、「本艦の救助には及ばず、貴艦のご健闘を祈る」と五十鈴に告げて、単独で離脱していったという。
- また、この後霜月(秋月型駆逐艦七番艦、未実装)*17の護衛を受けたが、霜月も瑞鳳の援護に回ったので単独で沖縄を目指して航行した。
- しかし1944年10月25日夜、時速6ノットの低速で北上しているところを米潜水艦ピンタード(Pintado, SS-387)及びジャラオ(Jallao:SS-368)に捕捉される。
当日は月夜で、月光を浴びて輝く海面には三本煙突のシルエットがくっきり浮かび上がっていたという。
ピンタードの艦長はのちに「月光を浴びた多摩はペンタゴンほどにも大きく見えた」と語っている。
位置関係からジャラオが攻撃を担当することになり、魚雷合計7本を発射。23時10分魚雷3本が命中し、うち2発が炸裂。
多摩の船体は真っ二つに折れたのち、間もなく沈んでいった。艦長以下乗組員全員が戦死を遂げた。
- 前述の大國魂神社の宮司さんによれば「分霊した御霊が還っていない状態なので出来れば沈没した地点で洋上慰霊祭を行いその上で大國魂神社内に『多摩』の慰霊碑を建立したい。」との事であったが……。*18
- 2014年10月4日に沖縄・護国神社で多摩戦死者の霊を呼び戻す招魂祭が行われ、エンガノ岬沖海戦のあった25日に大國魂神社にて慰霊祭・並びに慰霊碑の除幕が行われた。
戦中・戦後の混乱で情報が不足していたため、慰霊祭が行われたのも戦没後70年にして初めてのことであった。
この艦娘についてのコメント