天津風
Last-modified: 2015-07-19 (日) 07:32:36
No.181 |
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| 天津風(あまつかぜ) | 陽炎型 9番艦 駆逐艦 |
艦船ステータス(初期値/最大値) |
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耐久 | 18 | 火力 | 10 / 29 |
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装甲 | 7 / 25 | 雷装 | 28 / 79 |
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回避 | 48 / 89 | 対空 | 22 / 53 |
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搭載 | 0 | 対潜 | 26 / 54 |
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速力 | 高速 | 索敵 | 8 / 19 |
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射程 | 短 | 運 | 18 / -- |
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最大消費量 |
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燃料 | 20 | 弾薬 | 20 |
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装備 |
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12.7cm連装砲 |
61cm四連装魚雷 |
強化型艦本式缶 |
装備不可 |
改造チャート |
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天津風 → 天津風改(Lv20) |
図鑑説明 |
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陽炎型駆逐艦九番艦の天津風です。 次世代の艦隊型駆逐艦のための新型高温高圧缶のテストベッドを務めたのよ。 データはしっかりとって、島風に渡したわ。 幾多のピンチも頑張って乗り越えたのよ。大変だったんだから! |
※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。
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| | CV:小倉唯、イラストレーター:しずまよしのり (クリックするとセリフ一覧が開きます)
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セリフ | CV:小倉唯、イラストレーター:しずまよしのり | 入手/ログイン | いい風来てる? 次世代型駆逐艦のプロトタイプ、 あたし、天津風の出番ね。 | 母港/詳細閲覧 | どういう風の吹き回しかしら。 | いい風ね。 | やだ、髪は触んないでよ。吹き流しが取れちゃうでしょ。 | ケッコンカッコカリ(反転) | あの…なに、それ? へ?! 私に? …えっと、もらってあげてもいいけど…あなた、ホントに私でいいの? お、お礼を言うわね。 | ケッコン後母港(反転) | あなた…時々は休むのよ? それも大切なんだから…もうっ! 聞いてる?! …もぅ | 編成 | 第十六駆逐隊、天津風。抜錨よ! | 出撃 | 第十六駆逐隊、天津風。抜錨よ! | 二水戦所属は伊達じゃないわ。雪風、ついてらっしゃいな! | 遠征選択時 | いい風… | アイテム発見 | いい風… | 開戦 | いい風ね…。撃ち方、始めて! | 航空戦開始時 | | 夜戦開始 | 逃がさないって言ったでしょ? | 攻撃 | 逃がさないわ! | いい風ね…。撃ち方、始めて! | 攻撃(夜戦) | 大丈夫…いい風が吹いているもの! | 小破 | や、やったわね…! | きゃあっ! | 中破 | | 中破/大破 | ああっ、艦首と第一砲塔が! でも、まだこんなんじゃ沈まないんだから! | 勝利MVP | あたし…天津風が功労艦なの?あら、いいじゃない!時津風、どーお? | 旗艦大破 | や、やったわね…! | 帰投 | 艦隊帰投ね、お疲れ様 | 補給 | ありがとう、いただくわ | 改装/改修/改造 | あら…いいじゃない | あたしの連装砲くんの方が、可愛いに決まってるでしょ? | いい風… | 入渠(小破以下) | はぁ〜、疲れた。帰っていい? | 入渠(中破以上) | お風呂よお風呂。汗臭いのはいや。 | 建造完了 | 新しい子が来たみたいね。いいけど。 | 戦績表示 | どんなふうなの?…ふぅ〜ん。まぁまぁね。 | 轟沈(反転) | | 時報 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 放置時 | えっ?あたし、退屈なんかしてないわ。新型缶のデータを取ったり、色々と大変なんだから。ほ、ほんとよ! |
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ゲームにおいて
- 2014/04/23実装、同日開催の「索敵機、発艦始め!」E-3「ポートワイン沖海域」突破報酬として先行実装された。
- 2014/08/08開催の「AL作戦/MI作戦」E-1、E-3以外のボスでもドロップが確認された。
- 2015/02/06開催の「迎撃!トラック泊地強襲」ではE-2ボス/G/HマスS勝利ドロップにて入手可能。ただしE-2にしては高難易度という意見が多数。
- 2015/04/28開催の「発令!第十一号作戦」でもE-1全難易度のボスS勝利ドロップにて入手可能。E-1でのドロップは初であり、歴代でも最も天津風掘りをしやすいエリアだったと言える。
- 2014/09/12に実装された3-5で通常海域でのドロップが解禁された。ボスS勝利限定ドロップであり、他の通常海域でのドロップは確認されていない。
期間限定でこそなくなったとはいえ、難易度・ドロップ率ともに掘りにはかなりの運か根気が要求される。
その為、常設された3-5を差し置いてイベントの時に本気で掘りに行く提督も少なくないとか… お仲間さん?「じー…」
- 未改造でスロット3つあり、改造レベルも20と育成し易い。代わりに燃料の消費がちょっぴり多くなっている(史実ではむしろ缶のおかげで良燃費で島風と同じだったりする)。
- 素材としては、利根型や阿賀野型、夕張のように火力・雷装・対空・装甲すべての数値を上げられる、駆逐艦では唯一の特性持ち。
だが、Lv20という低レベル改装に加えて、レア装備の新型高温高圧缶や三式水中探信儀を持ってくるため、複数入手したら素材として使う前に一手間かけて改装する価値がある。
- 余談だが、駆逐艦勢でLv20改造が可能な艦娘はこの天津風の実装を最後にいない。(大体Lv30か35、稀に40と45)
- 運がほかの艦娘に比べて若干高めであるが、改造すると運が下がる。めずらしい子。
小ネタ
- 天津風とは「高い天空(≒高天原)に吹く風」を意味する。決して天津飯ではない
「天津風 雲の通ひ路吹きとぢよ 乙女の姿しばしとどめむ(僧正遍照)」という百人一首の歌で知られる言葉だろう。
この艦名は2代目。初代は磯風型駆逐艦で浜風(初代)らと姉妹であった。
また地味ながら艦名が漢字三文字、音数が五音というのは日本海軍の命名基準に則ったものとして最長である。*1
- 当時、列強が建造しつつある新型戦艦の速度は上がる一方だった。
「理想的な」艦隊型駆逐艦として完成されたはずの陽炎型だが、速力は35ノットに過ぎず、これは当時の新型駆逐艦としてはやや遅いものだった。
駆逐艦による雷撃の成功というものは、如何にして命中魚雷を得やすい射点(発射場所)に到達できるかにかかっており、その為に必要なのは何よりも目標に対する優速だった。
そのためには概ね10ノット以上の優速が求められていたが、陽炎型の35ノットという速度は敵主力艦を襲撃するには明らかに不足であり、次期主力駆逐艦にはそれ以上の高速性能が求められていた。
しかし速度を上げる為には陽炎型に搭載されたものよりも強力な機関が何としても必要。
そこで、次期主力駆逐艦に搭載する予定の新型ボイラーを陽炎型に試験的に搭載することになり、その試験艦として選ばれたのがこの「天津風」である。
- 従来の「甲型」のボイラーが温度350°C、圧力30kg/cm²の蒸気を生み出したのに対し、天津風のボイラーは更に高温高圧の温度400°C、圧力40kg/cm²の蒸気を送り出すことが可能であり、
この新型缶の搭載によって燃料の消費量を抑え、また缶そのものも軽量であったので機関重量の軽減も実現した。
- 天津風乗組員には各種学校の卒業者など特に優秀者を集め、機関の運転状況や整備状況などの詳細な報告をしていた。試験結果は良好で、海軍は大変満足したとされている。
- 天津風の成功を踏まえ建造された、新型缶を搭載した次期主力駆逐艦こそ、日本駆逐艦史上に名高い重雷装高速駆逐艦「島風」である。
そのため島風の従姉、もしくはプロトタイプ島風のような関係にあたる。
- 天津風の機関は試作型なのでそこまで無理をした性能ではない。缶は島風と同一ではなく、出力は同型である陽炎型の52,000馬力に準拠している。
一方の島風は79,240馬力を誇る。最近島風を見慣れてきてしまった提督諸兄は、彼女がすべての駆逐艦どころか扶桑型戦艦をも凌駕する途轍もない怪力の持ち主だということを再認識しておこう。
飛鷹も高温高圧缶を搭載したが当時の最新世代同士なだけであって、島風・天津風の艦本式自然循環型とは大きく構造が異なる。(飛鷹は川崎ラモント式強制循環型)
- タービンは他の陽炎型と同じだったので最高速力に大差はないが、全速時の燃費は11%向上、航続距離は6%延伸したという。
- 艦本式ボイラーとしては一般的なロ号より小型のホ号缶ではあるものの、温度400°C、圧力45kg/cm²という天津風・島風以上の高圧缶を搭載する五二号駆潜艇が天津風に先立って建造されている。
運用では缶の蒸気漏れに悩まされていたといわれ、天津風の仕様がやや手堅くなっているのもその反省によるものかもしれない。
- 開戦当初は同型艦である初風、雪風、時津風とともに、「華の二水戦」指揮下の第十六駆逐隊の一員として南方攻略作戦に参加し、
レガスピー、ダバオ、メナド、ケンダリー、クーパン、アンボン、ジャワ島、クリスマス島などフィリピン・蘭印方面の要衝の攻略に従事。空母や輸送船団の護衛を行った。
- 開戦直後のダバオ空襲では龍驤とダバオの間を神通、初風と共に一直線に並び、龍驤艦載機の道案内役と不時着機の収容に当たる。
- ジャワ島攻略作戦では輸送船団の護衛となりスラバヤ沖海戦に参加。神通指揮のもとで二水戦の僚艦と共に敵艦隊を雷撃するが、遠距離での発射だったことや魚雷の自爆問題により戦果を上げることが出来なかった。
また海戦に前後して船団付近を航行していた蘭病院船オプテンノールを臨検、抑留している*2。
海戦後は対潜掃討に当たり、3月1日深夜には天津風は船団の攻撃に来た蘭潜水艦「K10」を暗闇の中に発見し攻撃。反撃に魚雷を撃たれるなどもするものの初風の協力もあって「K10」は大破し、翌日スラバヤで自沈した。
- クリスマス島攻略作戦にも初風とともに参加。その際は大破した那珂が曳航されている間の護衛も行っている。
- 開戦間もない1942年1月、夜間の掃蕩任務(いわゆる潜水艦狩り)に参加した天津風は、暗い艦橋内で海図を確認していたため小さな島を見落としてしまい、島に直進するハプニングに遭遇する。
迂回して島を避けるにしても、掃蕩は8隻ほどの駆逐艦が横一線に並んで水中探知機により潜水艦を探す作業なので、探知機がカバーできないスペースを作らぬよう他の艦と連携してコースを変える必要がある。
天津風艦長は直ちに駆逐隊司令に相談した。「前方に島があるのですがどの方向に避けたらいいでしょう?」 程なくして司令から命令が届く。「飛び越えろ」
- 流石にジョークであり「ムリなら避けていい」と言われたので避けました。
- なおこの出撃の経緯というのが、とある偵察機が30頭からなる鯨の群れを発見したのだが、報告の電文を『時々潜望鏡(潮を吹く)を上げ、潜入時、油、及び泡を出す黒色の楕円体なり』とジョーク混じりに報告し、
その報告に『この時期そんなに大量の潜水艦がいる訳ないんだけど・・・・・・?』と頭を捻りつつ潜水艦なら狩るしかないという事で足柄が出撃命令を下したのがこの飛び越えろに繋がっている。
- 確認不足のまま出撃命令を出した足柄も大概だが、こういった正確さが求められる筈の報告にジョークを混ぜたものを寄越した偵察機の方が輪をかけて大概だった事は言うまでもない。
- 公式四コマ第42話でホントに飛び越えました(詳細は是非四コマで!)。
- ミッドウェー海戦後は空母機動部隊の再建のため第十六駆逐隊は二水戦から空母直衛を目的とする第十戦隊へと移籍となり、
天津風は空母機動部隊の一員として第二次・第三次ソロモン海戦や南太平洋海戦などのガダルカナル島を巡る攻防戦に参加し、ソロモン諸島を舞台に死闘を繰り広げることになる。
- 夕立無双でおなじみ第三次ソロモン海戦第1夜戦にも参加。敵味方互いに無茶苦茶な陣形で交差しあう中、比叡の発砲により戦闘が始まると、
天津風は混乱した陣形で衝突する事を避けるために速力を落としつつ長良の後ろについて進み、右前方に敵艦隊を視認すると前方を横切りつつ雷撃を加え数分後に魚雷の命中らしき爆発を確認する。
次発装填装置で魚雷を再装填しつつそのまま前進を続けるが長良を見失ったため反転し、集中砲火を浴びて炎上している比叡の方へ向かったところ至近距離に巡洋艦を発見、すかさず砲雷撃を加えてこれを撃破する。
しかしこの時に敵味方を確認しようと探照灯を照射していたため集中砲火を浴び大破、戦死45名重傷31名と多数の死傷者を出してしまう。同じく探照灯照射を行っていた暁は撃沈されてしまった。
天津風の主砲は動かなくなり魚雷も撃ち尽くしていたため戦闘不能となり、舵も故障して右旋回が止まらず狭い島嶼で座礁しかねない危険な状態となったため、
敵前ながらやむを得ず艦を停止させると煙幕を展開しつつ応急修理を行ない、なんとか人力操舵に切り替えるとよろめきながら離脱にかかった。
この際無線機も破壊されていたため、味方からは無線にも応答が無いことから一時は沈没したと思われており、後で合流した際にはその生存を喜ばれたという。
- 缶に損傷を受けたため速力が20ノット前後しか出ず、離脱中に夜が明け空襲を受けてしまうが、かろうじて俯仰のみは可能な一番砲塔を艦自体を旋回させて無理やり敵機に向けて撃つという荒業で反撃し、爆撃を逸らしている。
- その後工作艦明石による応急修理を受けてから単独帰国して本格的に修理された。彼女と明石の実装が同時期なのはこのためかもしれない。
- 応急修理の際に破孔を数えたところ直径1メートル以上の大破孔が32箇所、小破孔・弾痕は無数という惨状で、連日トラック島中の艦船からの見学者でにぎわう程であった。
- この海戦は近代史上まれに見る乱戦であったため経過については諸説あるものの、戦後の調査では天津風の最初の雷撃が駆逐艦「バートン」を撃沈し反転直後の砲雷撃が防空巡洋艦「ジュノー」を大破させ、
照射砲撃中の天津風を大破させたのが大型軽巡「ヘレナ」ではないかと言われている。
- 修理完了後は主に輸送船団護衛任務に従事することになる。この間時津風が翌1943年3月にビスマルク海海戦、初風が11月にブーゲンビル島沖海戦で戦没。第十六駆逐隊は天津風と雪風の2隻だけとなってしまう。
- 1944年1月16日、雪風、千歳とともにヒ31船団の護衛任務を行っていた中で米潜水艦「レッドフィン」を発見。*3
天津風は砲撃を加えつつ単艦で接近するが、あと少しの所で日が暮れ見失ってしまう。二時間ほど九三式水中探信儀で水中を探るが敵潜は探知できず、
この隙に船団が襲われる可能性を考えて攻撃を打ち切り船団の方へと舵を切った瞬間、天津風は自艦に迫る4本の魚雷を発見。
躱すこともできずに1本が左舷一番煙突直下の第一缶室と第二缶室の境目付近に命中し大破、航行不能になる。その破壊力は凄まじく約30tある魚雷発射管が空中に吹き飛ぶ程であった。
しばらくは命中部位を中心としてくの字型に浮いていたが、荒れた海も手伝ってねじ切れてしまい艦体が真っ二つに断裂してしまう。
やがて前部側の沈没が避けられない事が判ると生存者は後部側への移動に取りかかるが、前部と後部は潮と風に流されて急速に距離が離れていっており、
一隻だけ残ったカッターで脱出した30名程は無事に後部へ移ることが出来たものの、水泳が上手く泳いで移動しようとした組は大半が流されて辿り着くことは叶わなかった。
最終的に天津風の艦橋や前部主砲を含む第二煙突より前の部分は失われ*4、古川文次第十六駆逐隊司令以下74名が戦死。雪風は船団に残る唯一の護衛艦のため救援に来る事も出来ず、天津風は漂流する事になる。
艦橋もろとも海図や六分儀等を亡失していたため正確な遭難位置がわからず、雑誌付録の地図から無理矢理推定して救援を求めたが、案の定位置が大幅にズレており発見されなかった。
行動不能の後部のみで一週間漂流し続ける羽目になり、食料も乗員の体力も尽き果てた頃、艦長はついに電波を発信し方位測定をしてもらうという決断を下した。
敵潜水艦に発見される可能性が高く危険な賭けであったが、この結果天津風はやっと発見され、サンジャックへと曳航された。ド根性っぷりは艦娘一だと思う
第十六駆逐隊は天津風の大破により行動可能な艦が雪風のみとなったため解隊。天津風は第一南遣艦隊附属、雪風は第十七駆逐隊へと配置換えとなる。
- 中破絵では連装砲くんを乗せた艦首がポロリ。
- 漂流中の足りない食料を補うために即席の銛で寄って来たフカを捕ったという話が残されている。夕食の焼き魚ってまさか…
- 天津風に残存する第三缶室とその缶、および機械室に再使用の見込みがあったため、戦況の悪化で本土まで曳航する余裕が無い事もあり現地で航行可能状態まで応急修理の上で本土へ自力回航する事が決定。ブラックってレベルじゃねーぞ
天津風はサイゴンに曳航されるとフランス海軍の小型ドックを間借りし応急修理に取り掛かる。
応急修理は9月末には完了する予定だったが彼女の損傷は大きく、また部品やドックの工作能力、人員の不足に悩まされサイゴンでの機関の再整備や防水処理等が終わったのは11月。
続けてシンガポールのセレター軍港へと曳航され、仮設の艦首や艦橋を設置して応急修理が完了したのは翌1945年2月であった。
後部のみしかなかったところに仮の艦首をくっつけたため全長が45mも縮んでしまった。睦月型もビックリの小型化である。この衝撃的な姿はWikipediaに掲載された奮戦中の姿で確認できる。
この時の天津風の状態は速力が強度の制約から最高20ノット、武装は主砲が6門中4門、魚雷発射管が8門中4門が残存し爆雷投射機は健在と一応の戦闘力を保っているようではあるが、
艦首側と共に射撃方位盤や電探、ソナーといった艦の頭脳であり目や耳となる装備の大半を失っていたため戦闘艦としては半身不随という他なかった。*5
- この応急修理で装着された仮艦首は抵抗が大きく、速力以上の大波を立てた。しかし結果として天津風は速力偽装効果を獲得したことになり、これが後の奮戦の伏線となる。
- 本土での本修理については呉海軍工廠造船部による修理計画では、失われた前半部の修復は喪失した第一・第二缶室のボイラーや主砲一番砲は元通りに新造するものの、
船体は曲面の多い設計の原型から角ばったナックル方式へと再設計し、艦橋は一等輸送艦や松型駆逐艦のものをベースにした新設計の物で再建造、と陽炎型とは異なる独特な形状となり、
装備については防弾板の設置、機銃の増備、三式水中探信儀や二二号電探・一三号電探の装備、爆雷兵装の強化等により対空・対潜において抜本的な強化を図る、というものだった。
但し森田艦長の話では最終的な工事の担当は呉ではなく舞鶴であり、舞鶴ではまた別の修理計画で設計されていたのかもしれない。
- 天津風の応急修理の間に戦線は崩壊しサイパン、フィリピンは陥落、沖縄戦が開始される状況で、資源地帯であるシンガポールから日本本土の航路は完全に封鎖され、死地に飛び込むも同然な状況であった。
現地指揮官である福留繁中将は彼女が本当に帰国できるかを懸念し残ることを勧めたが、新駆逐艦長となった森田友幸大尉*6は、舞鶴海軍工廠で艦首側と缶の再建造に入ったという情報や、
貴重な機関を搭載していることも考慮して本土での修理を決断する。
- 応急修理完了後はリハビリのため一ヶ月間訓練を行って勘を取り戻し、1945年3月19日、天津風は帰国のためシンガポールから本国へ向かうヒ88J輸送船団への加入を命じられる。
護衛ではなく加入を命じられた天津風は輸送船と同じ*7立場で本来守られる側であったが、天津風の駆逐艦としての意地もあり船団側との交渉で護衛側として輪形陣の左後方に位置することになる。
ヒ88J船団は南方に残る艦船をかき集めた最後の資源輸送船団であり、途中での合流を含め最終的に輸送船4護衛艦10(タンカー4、海防艦7、駆潜艇2、天津風)が日本本土を目指したが、
機雷や潜水艦と爆撃機による執拗な攻撃により輸送船は全滅し、護衛の海防艦も3隻が撃沈され1隻が損傷により航行不能となって落伍する。
独特な形状で目立つためか天津風も集中的に攻撃を受け、レーダー照準で夜間雷撃を仕掛けてきた飛行艇を1機撃墜して一矢を報いるも機銃掃射により戦死者1名を出し、命からがら香港へと逃げ込んだ。
- 4月2日香港で新たに輸送船2隻を加えて生き残りの海防艦3隻と駆潜艇2隻と共にホモ03船団*8の護衛艦として再編成されるが、空襲により出発前から海防艦1隻が失われてしまう。
この際損傷した択捉型海防艦の満珠(未実装)から25mm単装機銃2基、13mm単装機銃1基を受け継いだ。(満珠は現地で大破着底から浮揚後、現地で修理中に終戦。)
- 4月4日に香港を出発するが、連日連夜の爆撃により翌日にはまたもや輸送船が全滅。
僚艦の駆潜艇と輸送船の生存者を救助を行うものの残存する海防艦2隻が前進を続けたため、合流するべく救助を駆潜艇に任せて北上。(この駆潜艇2隻は救助後香港へ退避。)
各個撃破を避けるため先行する2隻に合流を求めるが距離は縮まらず、また天津風の無線機も波浪で故障して一時的に使用不能になったためやや分散しての航海となる。
- 4月6日。南シナ海を突破し台湾海峡にたどり着くが米軍爆撃機隊に再び捕捉される。先行する海防艦2隻を沈めると、最後の獲物である天津風を仕留めるべく爆撃を開始。
18機のB-25が六波にわたって反跳爆撃を仕掛け、天津風は譲り受けた機銃も使い3機を撃墜、2機を損傷させるが天津風も三発の500ポンド(約230kg)爆弾が直撃し大破、航行不能となる。
このままではとどめを刺されかねないところであったが、陸から数機の零戦が駆けつけたため米軍爆撃機隊はこれ以上の攻撃を断念、辛くも難を逃れる。
- 被弾時には煙幕を展開しつつ甲板に油の染みこんだ布を撒いて火を着け、今にも艦が沈みそうな状態に見せかけるという映画のような方法で体勢を立て直す時間を稼いだ。
- 沈没こそ免れたものの被害は甚大で、主砲は全滅し燃料タンクの重油も炎上、注水弁や海水ポンプも破壊されたため消火や排水も捗らず、
主砲の弾火薬庫にも火が回り一時は弾薬が誘爆し出して危険な状態であったが、にわかに海が荒れ出し破孔から海水が入り込んだため火勢が衰え、爆沈を免れる。
機関自体は大きな被害は免れたものの、機械室への浸水のため破損した潤滑油のタンクに海水が流入しており、海水を分離せずにこのまま再始動すると機関が焼き付いてしまう恐れがあったが、
零戦が去った空では米軍機が再び天津風に接触を始めており、これ以上修理に時間をかけては漂流中の無防備なところに再度攻撃を受ける危険が大きいため、熟考の末に森田艦長は運転強行を決断する。
- 同日夜。なんとか人力操舵で近くのアモイ湾まで航行したが、入港予定のない港であり機雷原の位置が判らず、無線も破壊されていてあらかじめ港側へ先導を求めることもできなかったため、
やむを得ず湾外で一旦機関を停止させて艦の動きを止め、発光信号でアモイの監視塔に機雷原の位置を問いかける。
20分以上待たされた末の返答は「貴艦ハ既ニ機雷堰ヲ通過シ在リ」。返答を待っている間に潮流で流され、気付かない内に機雷原の只中を通過していたのである。
- しかしその艦を停止させた時間が致命的となり機関はとうとう焼きついてしまう。
かくしてそれまでしぶとく回り続けた天津風のスクリューはついに停止し、ワイヤーに吊るした代用の錨も天津風を繋ぎ止めることができずそのまま潮に流され、浅瀬に擱座する。
その後も曳航・修理が試みられるがアモイの警備艇では離岸させるには馬力不足で、天津風自身もようやく火災こそ鎮火したものの浸水が収まらず、ついに機械室が満水となってしまう。
天津風が脱出するべく悪戦苦闘しているところを、天津風を戦闘能力を失った難破船と侮ってか現地の匪賊が襲撃を仕掛けてくるが、天津風は死傷者を出しつつも25mm機銃の水平射撃を浴びせて健在を誇示し見事に撃退した。
だがこの襲撃はアモイは半ば敵中であるという事を示しており、また米軍機まで未だに天津風の頭上に張り付いている状況で動けないまま敵に身を任せる訳にも行かず、
最後の望みを賭けて再度曳航を試みるが失敗。もはや自力での艦の復旧は不可能と判断され森田艦長は止む無く艦の放棄を決断、ついに総員退艦を下令する。
天津風はアモイ根拠地隊の協力により匪賊から再度の襲撃を受けつつも三日間かけて武装と物資を陸上へと引き揚げた後、軍艦旗降下。
本来ならその各々が駆逐艦一隻を轟沈させるに十分足るであろう三度の大損害を乗り越えた不沈艦は1945年4月10日夕刻、艦内の主要部八ヶ所に仕掛けた爆雷に点火し自沈する。
この直前坊の岬沖海戦で浜風と磯風が戦没していたため、残る陽炎型は雪風一隻となった。
以上は艦長だった森田友幸氏の著書 『25歳の艦長海戦記 駆逐艦「天津風」かく戦えり』 光人社NF文庫に詳しく記されている。
- その後5月には上海から144号輸送艦がアモイに入港し、天津風の乗組員62名と天津風に積み込まれていた希少金属8トンを収容して無事上海に帰投。
上海に移動した乗組員はそれぞれ新しい任地へと赴き、そのうち砲術長ら一部の乗組員はついに日本本土へと生還する。
アモイに残留した乗組員約百名は河川警備用の25t砲艇を改造して魚雷を括りつけた即席の魚雷艇により、アモイに上陸してくるであろう連合軍を迎撃する準備を進めていたが、8月15日終戦。
1946年2月に特設潜水母艦筑紫丸、駆逐艦花月、海防艦85号の三隻の復員船に迎えられ無事日本に帰還した。
- 2012年には同地点から天津風とみられる残骸が発見され、中国の政府当局はサルベージを禁ずるとともに無断で引き上げられた30tあまりの残骸を差し押さえ、文化財として保護している。
しかし、保護目的が抗日記念館の展示目的なので複雑といえば複雑だが。
天津風引き上げに関するニュース(簡体中国語)
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| | 「艦トハ乗ルモノナリ」吉田俊雄航海長のはなし
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- 艦トハ乗ルモノナリ
- 後に海軍作家となる吉田俊雄元中佐が新米中尉だった頃、天津風の航海長へと着任し、操艦を行うことになった。
そして着任わずか3日後の大時化の日、突如二水戦司令官から訓練のための出港命令が下る。
天津風の水雷長曰く「いや、これがオヤジのクセなんだ。絶好の訓練日和さ。」さすが華の二水戦である。
吉田中尉が緊張とともに舵を握った…のだが、不慣れな初心者ゆえに天津風は右へ左へ酔っぱらいの千鳥足のようにフラフラ。
見かねた二水戦旗艦神通から「当直将校誰ナリヤ」とお叱りが下る。艦長が「初級士官訓練中」と返答したところ、上の通信が入ったのだった。
- つまり「乗セラレルモノニアラズ」、要は「下手な操艦をするな馬鹿者。艦(ふね)は乗るものであって乗せられるものではないんだぞ」。これを帝国海軍の誇るユーモアセンスで脚色するとこういうことになる。艦長以下の士官は大笑いし、下士官は必死に笑いをこらえていたという。
- このエピソードには続きがある。艦長からの返答を聞いた司令官は「ははぁ先日挨拶にきたひよっこだな、では一つもんでやろう」とばかり、急加速だの急減速だの大転舵だのと新人には荷の重い指示を連発。
舵を取る吉田中尉は大汗をかきながら必死に食らいついた。
- 訓練の終わり、再び旗艦から通信が入る。「ダイブ上手クナッタゾ、初級士官」。
努力の成果をちゃんと見てフォローも忘れない、そんな粋な帝国海軍の素敵な話でありましたとさ。
ちなみに、多くの少年を水雷戦隊好きに引き込んだ吉田俊雄氏の名著『壮烈!水雷戦隊』に収録されているエピソードである。
- なお吉田中尉の前任は戦艦長門の通信士で、専ら無線電文の処理が任務だった。つまり大型船舶の操縦は初めて。ぶっつけ本番も良いところである。
- このとき旗艦神通で水雷戦隊の指揮を執っていたのは、田中頼三司令官である。
- 海軍の若手士官の任務には「内火艇指揮」があり、戦艦搭載の大型艇は軍艦並みに2軸のものもあって、このために常時操艦の練習をやらされることにはなっている。だが、いきなり駆逐艦は荷が重すぎたようだ。
- ちなみに新米吉田中尉が冷汗脂汗をかいたこの艦隊運動、二水戦にとっては単なるウォーミングアップに過ぎない。
このあと艦長に操艦をバトンタッチしたのち速力を上げ、神通自ら敵艦役を務める4駆逐隊異方向同時魚雷戦、
さらに神通が先頭に立っての無灯火夜間襲撃戦など、人間の能力限界ギリギリの訓練を行うのが二水戦の日常であった。
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- 戦後は海上自衛隊初の艦対空ミサイル搭載護衛艦(DDG)となる3代目「あまつかぜ」(DDG163)が1965年に就役している。「天空に吹く風」≒「ジェット気流」を艦名に冠したことや、排水量の大きさの割に艦の動揺が激しかったことから「JET COASTER」のニックネームが付いていた。
- 当時アメリカでも実用化されたばかりだった「ターター・システム」の供与を受け、日本初のミサイル艦として誕生しただけでなく、今まで人力による部分が多かった各兵装システムの統合制御化、省力化を達成し、護衛艦の近代化に多大に貢献、
数次に渡る改装を経て約30年の長い間一線級の活躍をしたのち、先代に負けず後継のためのさまざまなデータを残し1995年除籍、最後は標的艦として若狭の海にその身を沈めた。
- 最高速度33ノット(公称値)は地味に戦後国産艦最速記録の持ち主。その搭載ボイラーは温度450°C、圧力40kg/cm²と先代をも超える高温缶であったが、先述のシステムに大電力を要したため、巡航用タービンの出力は60000馬力にとどまっている。
- そんな「あまつかぜ」で培った「ターター・システム」であったが、今となってはご存知の通り「イージス」「PAAMS」といった新システムに取って代わられているため、旧式化した搭載艦船は徐々に数を減らしつつある。
日本でも2隻が残るのみとなっているが、そんなターター最後の艦が「しまかぜ」の名を持つのは、やはり何かの縁なのかも知れない。
- 建造当時は海自最大の護衛艦であり、また世界的にも最初期のミサイル艦のため桁外れの高コスト艦であった事から当時の海自には同型艦を建造する事が出来ず*9、11年にも渡り海自唯一のミサイル搭載艦として
ぼっち君臨する事となった。
- 左舷プロペラが横須賀地方総監部、右舷プロペラが横須賀教育隊、主錨が舞鶴地方総監部にそれぞれ残されている。
- 1971年から1972年にかけ、その「あまつかぜ」を含む第1護衛隊群の第14代司令に着任したのが、偶然にも天津風最後の艦長であり、戦後海自に入隊した森田友幸海将補であった。
- イラストレーターしずまよしのり氏によると、他の駆逐艦よりボイラーの温度が高いため、肌色をほんのり赤に近づけたとTwitterで語っている。
その際の温度を人間の体温にすると41.7℃らしい。風邪ってレベルじゃない。
- 向かって左に描かれているのは「連装砲くん」。
- 天津風の装備であった50口径三年式12.7センチ砲C型連装砲架(12.7cm連装砲C型)がモデル。島風の「連装砲ちゃん」はD型。
- 下半身は「ゼカツマア」と書かれた船体になっている。真っ二つに断裂して失った艦首と主砲を模したのかも知れない。
- 『艦娘二○十五年暦』のイラストで船体から脱着可能な事が明らかに、連装砲ちゃんと同様に脚は付いていたようである。
- 太ももに見えるガーターベルトのようなものは、頭上の煙突帽子まで繋がっている。
エロ水着の如くブラ代わりになってるのかもしれない。
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