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比叡

Last-modified: 2015-06-12 (金) 13:31:26
No.022
司令には、恋も!戦いも!負けません!比叡(ひえい)金剛型 2番艦 戦艦
艦船ステータス(初期値/最大値)
耐久63火力63 / 89
装甲52 / 69雷装0
回避30 / 59対空24 / 69
搭載9対潜0
速力高速索敵13 / 39
射程10 / 49
最大消費量
燃料80弾薬110
艦載装備
335.6cm連装砲
315.2cm単装砲
37.7mm機銃
装備不可
改造チャート
比叡比叡改(Lv25) → 比叡改二(Lv75)
図鑑説明
井上提督も愛した巡洋戦艦、比叡です。
ぴかぴかに肌を磨いて、御召艦としても活躍したの。
大和型のテスト艦にもなったのよ、知ってた?
え?ソロモン海戦?そうよ、奮闘したわ!

※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。

CV:東山奈央、イラストレーター:コニシ (クリックするとセリフ一覧が開きます)

ゲームにおいて Edit

  • 金剛型戦艦4姉妹は、榛名の運が15、金剛が12であることを除いて、性能的な差違はない。
    他の他の戦艦(金剛型以外)との違いは、回避率に関わるらしい速度が「高速」であることと、中口径主砲が積めないこと。
    以前は徹甲弾が装備出来なかったが、2014年7月28日のアップデートで可能になった。
    ドロップなど詳しくは金剛も参照。
  • 比叡は2-4まで唯一ボスでしかドロップせず、比較的入手が難儀である。
  • 2013年11月20日のアップデートにおいて、金剛に続きLv75での「比叡改二」への改造が実装された。運用コストは上昇するものの、火力は金剛同様長門型に匹敵する98まで向上。対空・耐久こそ劣るが、装甲では互角のものを持つなど、相応にパワーアップが見られる(いずれも最大値)。
    ちなみに姉妹艦である金剛改二も、ほぼ似た様な性能である。なお、改造時に三式弾を持ってきてくれる。

小ネタ Edit

  • 比叡ひえー!(小破時。ツッコミ禁止)
  • 金剛型戦艦2番艦。金剛はイギリス製デース{お姉さま少しお静かに}明治の終わり頃に建造された艦であり、太平洋戦争参加艦としては最古の日本戦艦。
    御召艦(おめしかん)になったこともある由緒ある艦。
    • ただし、比叡が公式に戦艦でいられたのは、1931年6月〜1932年12月までのごく短い期間だけ。
      しかも艦籍は「練習戦艦(下記及び改二に詳細)」であったため、帳簿上では沈没時も「練習戦艦」とされていた。
  • 巡洋戦艦として建造されたため、艦名は「比叡山」から。同名の艦としては二代目。
    • 初代は金剛型コルベット艦2番艦の比叡。姉は二代目同様金剛であり、こちらは二人姉妹で共に英国製。
      この初代姉妹はエルトゥールル号遭難事件の生存者をトルコへ送り届けたことで知られる。
      • 初代比叡は、日清戦争黄海海戦にて「敵艦の包囲を単独敵中突破し生還」という武勲を成し遂げた。
        その戦闘で蜂の巣穴の如く被弾した軍艦旗は「名誉の証」として二代目比叡に受け継がれ、式典等で掲揚する事が習わしであった。
        同名鑑はこのように、名とともに栄誉も受け継ぐのである。
    • また三代目として、はるな型ヘリコプター搭載護衛艦「ひえい」(DDH142)が2011年まで就役。
      就役期間36年3ヶ月は海上自衛隊最長記録ホルダーである。
      • しかし艦内神社は、「比叡」が比叡山の日吉大社から直接摂られているのに対し、「ひえい」は東京生まれ(後述)のためか、同じ山王様を祀る近場のヒェー日枝神社で済まされてしまっている。
    • 三代全て『2番艦』。
  • 名目上は国産戦艦だが、配備を急ぐため兵装や部材のほとんどをヴィッカース社から買い付けている半ノックダウン生産艦。
    • 中破時のセリフの「お姉さま譲りの装備」はここから来ているものと思われる。
    • それを反映してか、カードイラストでは微妙に眼の色が薄く、髪も金剛同様の茶髪。
      • カードイラストでは、霧島も碧眼であり榛名のみ瞳の色が違う。
        これは、竣工時に榛名以外の姉妹3艦が同じタービンを搭載していたところからくるものか。
        はたまたイラストレーターの気まぐれか。
    • また、比叡本人は金剛との関係を「妹分」とも称している。
      • 妹分とは「義妹」もしくは「妹のように親しい人」のことである。
        これは、設計図こそ四姉妹ほぼ同じだが、「英国製の金剛、半ノックダウンの比叡、純国産の榛名霧島」と、複雑な家庭の事情製造された環境を鑑みての発言と思われる。
    • 建造に関わった磯崎清吉・造船中将は、息子を叡と命名した*1
  • ゲームでは金剛お姉さまにぞっこんの比叡だが、史実では金剛との絡みはあまりない。
    • 姉妹艦でも速力に差があり、若干速い金剛&榛名、若干遅い比叡&霧島で分けられることがほとんど。
      金剛と組んでいたのは開戦時からミッドウェー海戦までだったり。
    • さらに転生後は「こんごう」と姉妹にすらなれなかった。お姉さまははるな(DDH141)だったりする。
      • 金剛型から襲名するこんごう(DDG173)、はるな、きりしま(DDG174)は全て三菱重工長崎造船所製。*2
        しかし「ひえい」だけは石川島播磨重工東京第2工場*3だった。


  • 金剛型は戦艦への改装が順次実行されるが、比叡は進捗状況が姉妹の中で一番遅れていた。
    そして比叡改装途中にロンドン海軍軍縮条約が締結し、その影響を受けて作業がいったん中止となる。
    • 2年半にもおよぶ放置プレイ作業中止の後、条約に適合させる為に戦闘力半減という逆大改装を受けて練習戦艦となる。
      • 缶は半減、舷側装甲板や四番主砲塔を撤去され、後に戦記作家になった吉田俊雄はその無残な姿を「お年寄り」と呼び、後に最後の艦長になる西田正雄は涙を流して悲しんだという。
  • 練習艦となった比叡はスケジュールや艦内設備に余裕が出来たため、その後の大改装までに数度に亘り御召艦の栄誉を賜った。
  • 御召艦として展望台や御座所が設けられ、観艦式の前には二週間に及ぶ乗員の徹底的な清掃が行われた。
    また、階段の手すりなど陛下がお手を触れられる可能性のある場所は、全て純白の絹で覆われた。
    そんな比叡は、昭和天皇のみならず、当時の市井の人々にもなかなか人気者だったそうな。
  • 特に(自己紹介にもあるように)井上成美提督は比叡がお気に入りで、部屋に絵まで飾っていたらしい。
    …艦これでも、家具で実装してくれないかな?比叡の油絵…
    • 海軍省の課長だった井上成美大佐(当時)は、海軍省に対する軍令部の横暴とも言える権限拡大要求に断固として反対し続け、圧力に屈した海軍大臣や直属上司の軍務局長が説得しても折れなかった。
      そしてついに海軍省から横須賀鎮守府に追い出され、予備役編入寸前となった。
      しかし軍令部側のトップで仇敵であるはずの伏見宮博恭王元帥*4は井上を高く評価しており、彼の「良いポストをあたえてやってくれ」との口利きもあって、井上は比叡艦長に就任する。
    • 比叡艦長就任以前は長らく地上でのデスクワークばかりの経歴だったため、当初は比叡乗員に「赤煉瓦*5の艦長がこの大艦を操れるのか?」と侮られていたが、十数年ぶりの航海指揮に際し「計算尺が操艦しているようなやり方で」大連港の桟橋に比叡をぴったりと接舷させ、周囲を驚かせたという。大型艦は沖合に錨泊するのが常であり、特に大連は戦艦の接舷は初めてのことだった。
    • 井上艦長は以前乗務した通報艦や砲艦などの小型艦ではまったく船酔いしないのに、大型艦では酔いやすかった。比叡での航海中は、戦艦の艦長たる者が船酔いで寝ている訳には行かず、一番困ったという。戦後「比叡には随分苦労させられたが、その分愛着も湧いたものです」と語っている。
    • さらに井上艦長時代の逸話として、1935年の満州国皇帝溥儀の日本行幸で比叡が御召艦として使われた際のものがある。
      復路で御召演習を行いながら国賓である皇帝溥儀の日満間往復を行う航海であったが、皇帝御付きの満人ボーイの素行があまりに悪いことに艦長以下の乗員は頭を悩ませていた。
      そして御召演習中にボーイが舷窓を閉めなかったことに怒りが爆発した井上艦長は、黄海洋上で「機関停止。縄梯子垂らせ。命令を聞かぬ奴らは叩きだせ(意訳)」と命令する。
      しかし流石にそんな事は起きず、この命令は直後艦橋にやってきた満州国宮内府大臣の謝罪により撤回された。
    • なお井上提督は生涯に何度か身の回りの少女に礼儀作法を教えたことがある人物だったりする。
      つまり比叡も一人前のれでぃーである可能性は少なくない。
    • 余談であるが、比叡艦長就任がなければ提督(将官)にすらなれなかったかもしれない井上提督は、日本海軍最後の海軍大将となった。*6
    • 余談の余談となるが、江田島の海軍兵学校校長時代、井上提督の甥にあたる見習いの陸軍士官から手紙を貰っているが、
      意訳すると『潜水艇部隊の給与規定を作りたいので海軍潜水艦乗組員の給与規定を教えてほしい』という内容であったため、
      早速『馬鹿者、お前は軍の制度というものを知らなさすぎる(意訳)』という『お叱りの手紙』を送り返している。
      ただし海軍潜水学校の担当者である中佐を紹介している辺り、やはり叔父として甥の面目を保たせてやりたいという心情はあったという事か。
      (ちなみにこの見習士官は、無事作成した給与規定が正式採用された一か月後、その潜水艇部隊・・・言うまでもないあのまるゆ部隊へめでたく配属、自分で作成した給与規定による給与を受け取ることになった。「もっと金額を多めにしておけばよかった」との後日談)
  • 実際に観艦式*7での御召艦比叡を目にした後の直木賞作家豊田穣*8いわく、まるで生まれながらの貴婦人が舞踏会に招かれたようだったとのこと。
    幾度もの御召艦の経験によって、艦隊一同の敬礼を受けるのが当然のような貴族的な雰囲気を身につけていたという。
  • 但し、御召艦指定を受けると乗組員は2週間上陸禁止となり、清掃などの準備に専念させられたため、名誉に伴う苦労は並大抵ではなかったようだ。
  • 1940年7月3日から翌年4月まで、皇弟である高松宮宣仁親王が砲術長として勤務していた。親王は特別扱いを一切断り*9、一少佐として勤務した*10という。
  • 実際には、ノックダウン建造という不慣れな建造形態だったこともあり、細かい不具合が多く乗組員を悩ませた。練習戦艦へ配転され、後の大改装が徹底したものになったのは理由がないわけではない。
  • 最終的には、他の姉妹が数度に分けて実施した改装を一挙に実施すると同時に大和型の技術的テストベッドとなり、大和型戦艦に採用される塔型艦橋に改装。
    金剛型姉妹の中では最も見分けやすい艦となった(他姉妹は艦橋が檣楼型)。
    • またこのため、金剛型で唯一『前部(一、二番)砲塔だけ』『後部(三、四番)砲塔だけ』での統制射撃を行うことが可能な艦となっている。
    • 注排水装置、弾火薬庫冷却装置、砲塔駆動水圧装置など補機類も、大和型に採用される予定のものが搭載されて性能が確認されている。
      • 他三艦……というか大和型と比叡以外の戦艦はすべて『全砲塔での統制射撃』か『各砲塔での各個射撃』のどちらかしかできない。
        もっともその有効性が実戦で発揮される機会はなかった訳だが……。
    • 完全に余談ではあるが、大和型テスト艦にも使用された比叡の名を継ぐ海自の「ひえい」は、映画「男たちの大和/YAMATO」において、彼女の航跡を撮影したものをCG合成し、大和の航跡が写るシーンとして使用した。同じく、彼女の内火艇も作品中で使用されている。大和と比叡との縁はかくも深いものであった。
  • 他の3姉妹の改装での不具合を全て改善した結果、バルジが拡張されて全幅が1m大きくなった。内緒だよ?

  • 成功裏に終わった金剛榛名によるガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃を、今度は比叡霧島で実施することに。これにより第三次ソロモン海戦が惹起することとなった。
    勝利に浮かれる軍部に対し、昭和天皇が「初瀬・八島の例がある、待ち伏せ攻撃に気をつけろ」*11と戒るが、参謀の独断により現地部隊への伝達がされなかった。
    戒めの言葉が届いたことによって未来が変化したかどうかは神のみぞ知るところだが、結果として比叡は待ち伏せ攻撃を受けることになる。
  • 海戦史上最大の混乱をきたした第三次ソロモン海戦で奮戦し、軽巡アトランタに初弾で命中弾を与えた。
    しかしながら、探照灯照射を行った艦の宿命、それも大型艦であったため、敵艦多数の集中砲火を浴びた。
    相手は巡洋艦や駆逐艦だったが、装甲の薄さが災いし艦橋を含む上部構造から船体にかけて次々敵の砲撃によって損害が発生し、
    艦内電話は不通になり、発砲電路も切断され一斉射撃が不能に。しかも艦尾の装甲部分を撃ち抜いた砲弾によって舵取機室舵、電動機室が浸水し、操艦が不可能になってしまった。
    • 奇しくも(予期せずだったが)小中口径砲の集中砲火で戦艦を無力化させてしまう戦法は、日清戦争時に清の定遠級戦艦に対して日本海軍がとった戦法と同様だった。
    • 味方艦艇による曳航や近くの島へ座礁させることを検討されるも、夜が明けると断続的に米軍機が飛来するようになる。
      復旧作業もままならなくなり、支援部隊「隼鷹」からの零戦による援護の甲斐なく比叡の損害は時間と共に拡大していく。
      このままでは作業続行も曳航も不可能である、と司令官は比叡の自沈を決断した。
    • 当初は退艦を拒否していた西田艦長も、機関室全滅の報告を受けて総員退艦を決意し、比叡の注水弁(所謂キングストン弁)を開放させた。乗員は「雪風」他、各駆逐艦へ移される。
      • 西田艦長はあくまで比叡と運命を共にすると言って聞かず、部下たちの説得も頑として拒み続けた。
        部下たちは、将来連合艦隊司令長官になるべき器である俊秀*12の艦長を死なせまいと、大暴れする西田艦長を数人がかりで無理やり取り押さえ、救命艇へ押し込んだ。
        艦長は最後まで「俺を卑怯者にしないでくれ!武士の情けだ、俺を比叡とともに死なせてくれ!」と絶叫し続けていたという。
        しかしこのような部下たちの努力もむなしく、後述する通り、乗艦を捨てたとみなされた西田艦長には冷酷な運命が待ち受けていたのであった。
  • 吉田俊雄、相良俊輔らの著作に「西田艦長が機関室全滅の報が誤報である事を知らされた時には、既に味方駆逐艦から魚雷が撃ち込まれていた」
    「雷撃を止めようと部屋を飛び出した時雪風にて魚雷発射音を聞いた」とある。
    このドラマティックな描写が「雷撃しなければ比叡は助かった」との誤解を生んでいるが、司令官と西田艦長が注水弁を開放させた時点で比叡の沈没は避けられなかった。
    後述の通り、雷撃処分は比叡を速やかに沈没させるための補助であったが、処分中止命令が下されており、戦闘詳報や護衛駆逐艦側に魚雷発射の記録はない*13
  • 比叡の戦訓から応急舵(戦艦が艦尾に付けている四角い板)を開発、常備するようになったそうです。
  • ここで仮に「機関停止状態=睡眠状態」としてみよう。
    提督達に愛され親しまれているあのセリフは……?寝てません!寝てませんてばぁーっ!
  • 雷撃処分の遂行途中で、連合艦隊旗艦「大和」の山本司令長官より処分撤回命令が出される。
    • 「浮いている限りは輸送船団への攻撃を吸収する可能性がある」との黒島先任参謀の主張が理由であるとされている。
      山本司令長官は当初、その無残な姿が米軍の宣伝材料になることや捕獲されることを恐れ比叡を早急に処分すべきと考えていて、その意向を汲み取った宇垣参謀長*14はお召艦の栄誉ある比叡喪失の責任を現場の戦隊司令官ではなく連合艦隊司令部が肩代わりする含みも持たせて処分発令をしようとした。
      しかし、黒島*15の上記の主張によって山本は突然変節してしまったという。
    • 護衛に来ていた駆逐艦雪風、照月(艦これ未実装)、時雨白露、夕暮(艦これ未実装)ら5隻は一時的に現場から退避し、6時間後に戻るが比叡の姿は無かった。こうして彼女は、太平洋戦争で最初に沈没した日本海軍戦艦となったである。
      • 夜戦時の「見捨てないでぇー!!」はこれが元。
    • 機関がかろうじて生きていた(寝てません!寝てませんてばぁーっ!)にも関わらず自沈決定・囮艦とされ、
      仲間が避難している間に(見捨てないでぇー!!)誰にも看取られることなくサボ島沖の鉄底海峡に姿を消した。
      これが比叡の最期であり、太平洋戦争における日本海軍最初の喪失戦艦となった。
      • 自沈が決まり「軍艦旗降ろし方」の命令が下った際、何かが引っかかって中々降ろせなかった。
        まるで比叡が自沈を拒否しているかのように見えたという。
      • 翌日には、この日に共に戦った妹の霧島もまた同じ海底に沈んでいった。
  • 西田艦長は「予備役編入・即日召集」という懲罰人事を受けた。山本五十六長官らの猛抗議にもかかわらず、この決定は覆らなかった。
    そして昇進の望みの無くなった予備役大佐のまま閑職を転々とし、終戦を迎えた。死の直前まで、海軍時代のことを黙して語らなかったという。
    • 西田艦長は昭和49年に78歳で没した。法名「清秋院釈正叡」
      「叡」の字は比叡から、「秋」の字は比叡の没した季節から採ったもので、生前の艦長自身の希望による。
      西田艦長と比叡は、生涯の最期まで共にあり続けたのであった。
  • 一方比叡に御神体を分霊した日吉大社も沈没の報を受けることが無かったため、社務所で行われていた建艦募金を比叡が没した後の1943年の正月も予定通り実施してしまったというエピソードがある。

  • 生還者の多くが新鋭軽巡「大淀」に配属された。軽巡でありながら比叡の歴戦乗組員による戦艦並みのシゴキで、訓練は非常に厳しかったという。
    • しかしそのおかげで大淀は、新鋭艦にありがちな「錬度不足のまま実戦へ投入」という事態に陥らなかったのが幸運と言えよう。
      元乗組員たちは「二度と艦を失う悲しみは繰り返さない」を合言葉に、比叡時代に培った錬度と旺盛な士気を武器に大戦末期の劣勢の中、奮戦を続けた。
  • 戦後、現在の横須賀市 衣笠の光心寺に、比叡の慰霊碑が建立された。
  • サーバ名にもなった「鹿屋基地」改め「海上自衛隊鹿屋航空基地」にて「戦艦比叡の主錨」が現在も保存されている。
    この錨、宇都宮基地にあったものを移管したとのことだが、比叡の引き上げが行われた記録も無ければ、錨が内地にあったというのも謎。由来については・・・・いいのか?それで・・・
    また、大分県竹田市の広瀬神社には第二次改装時に取り外された比叡のマストが保存されていたが、
    残念ながら近年老朽化のために切断撤去され、現在は同神社所蔵の戦艦朝日のカッターの下に部品の金具が残されているのみとなっている。
  • 彼女の生涯を描いた本は『戦艦「比叡」―高速戦艦悲劇の生涯』(吉田俊雄著)、『怒りの海―戦艦比叡・西田艦長の悲劇』(相良俊輔著)、『四本の火柱』(豊田穣著)などがある。
    • 怒りの海は西田艦長が晩年に一度だけ受けた取材を元として書かれた。
      四本の火柱は名目上金剛型四姉妹の戦記であるが、比叡最期の戦いとなった第三次ソロモン海海戦・第一夜戦の記述が最多となっている。

  • 比叡は帝国海軍最後のお召艦。金剛榛名霧島もその経験はあるが、担当回数は比叡がダントツである。
    • お召艦のお役が、軍艦による番代制になったのは1886年から。以前は専用のお召船*16が務めていた。
    • お召艦に天皇陛下や皇族が乗艦される場合、区別旗*17や長旗はすべて下げ、大檣頂に天皇旗を初め皇族に関する旗を掲げる事が為来りであった。
    • 戦後になると皇族による軍(=自衛隊)の観閲が事実上困難になったこと、海外へのご訪問も客船、その後は空自の政府専用機が担当するようになったため、事実上お召艦という制度が消滅した。
      • 2010年のエルトゥールル号遭難事件追悼式にて、三笠宮寛仁親王が護衛艦「せとゆき」に乗艦された事が、戦後唯一お召艦が設定されたケースとなる。*18
  • 大きなキャラ付けのひとつとして、比叡改二の時報で「比叡カレー」なる料理ネタが登場する。
    • それまでは公式4コマのネタ等から、主に金剛が料理ネタで話題になる事が多かった*19。ただしこちらはあくまで解釈の一つと言う範疇だった。
    • 一方で比叡は時報で提督がコメントを拒否して逃亡した上、公式4コマや、ドラマCDの「比叡、カレーを作る」でも他人が逃げ出す料理を披露しており、完全に公式ネタとなっている。
      • ただ、これがメシマズかと言うと、気合!入れて!隠し味を足しすぎただけ、と読み取れるものであり、壊滅的な味オンチであるとか、根本的に料理がヘタだとは断定できない描写に留まっている。
    • 先述の通り比叡は御召艦の経験回数が旧日本海軍でトップタイであるため、その関係からメシマズ説を否定する声も存在する。
      • むしろメシマズなのではなく旨すぎてコメントできなかった・天皇陛下が食されるような格が高すぎる料理にコメントできなかったなどと言う解釈も一応あった。
      • だが当然、陛下のために出される料理と、乗員のための料理はレシピも調理人も別物だろうし、そもそも「カレー」という時点で、比叡が言う「自慢のレシピ」とは乗員用メニューをアレンジしたものと思われる。
      • 「陛下が御残しをされた事がある」という話も語られてはいるが、これはメシマズだったという話でなく、これまた気合い入れてたくさん作り過ぎたという話の模様。
      • このネタが「気合いが空回りする」という性格に反映された可能性もある。
      • ただ、天皇陛下が食される料理は天皇陛下の尊厳に関わるものを徹底的に排除するため、水洗いしてネバネバを全て取り除いた納豆など、一般人から見れば理解できない食材が使われる事も多く、御召艦の経験がキャラに反映されていたとしても正直微妙である。
    • ちなみに護衛艦「ひえい」は海上自衛隊一メシが不味い艦として内部では知られており、「ひえい」に配属が決まった海自隊員は、戦艦に配属される海軍軍人を彷彿とさせるほどの拒否反応を示したという。*20
      準姉妹艦の「くらま」が横須賀カレーコンテストベスト3に入賞しているというのに、この違いはなんだろうか。
    • 以上の事から、改二実装からしばらくは唯一のメシマズ勢として扱われてきたのだが、本物のメシマズが現れてしまったため、少なくとも「唯一」の看板は下ろす事になった。
  • 上記にいくつかあるように、日向とともになぜか次代艦「ひえい」がらみと思われるネタが散見される。
    なお、護衛艦「ひえい」は1989年に「ゴジラVSビオランテ」に出演しており、「はつゆき」と共にゴジラに立ち向かった。……結果はお察し。

この艦娘についてのコメント Edit

過去ログ

最新の15件を表示しています。 コメントページを参照

  • このアイコンは、先日のピクトリアル2の表紙っぽいかな。 -- 2015-07-13 (月) 16:21:11
    • 7/14 発売だから、そのCMかなw -- 2015-07-13 (月) 16:22:32
    • 改二の立ち絵が好きじゃないんだが、無印と改二の中間な感じのこの絵は凄く良いと思う -- 2015-07-13 (月) 18:24:14
      • この絵描きさん、絵柄安定しないのがなぁ。書籍の描きおろしイラストだとわりと良いの書くのに、艦これのゲームカットだと…みたいなケースも多い。 -- 2015-07-13 (月) 20:08:06
  • 比叡アイコンかわいい(かわいい) -- 2015-07-13 (月) 21:06:25
  • ひえええええええええかわえええええええええ! -- 2015-07-14 (火) 20:44:21
  • 比叡「司令っ! 18日・土曜日は海上自衛隊下総航空基地(千葉県)でサマーフェスタですよ! ミニP−3Cの公演など見所盛りだくさんです! 屋外に展示されている私のいかりも、封鎖されてなければ是非ご覧下さいっ!」 -- 2015-07-14 (火) 23:44:57
    • 遅れながら見に行ったぜ!いや〜戦艦の錨ってこんなにでかかったんだな・・・ -- 2015-07-21 (火) 20:21:43
  • 比叡さん・・・金剛さんのお世話係でもやってんですかね・・・(金剛の夏ボイス) -- 2015-07-17 (金) 17:22:26
    • 自分から進んでやってるんじゃないだろうかw -- 2015-07-17 (金) 17:52:08
  • ひえい...なぜ用意しなかった -- 2015-07-17 (金) 18:00:32
    • 比叡「ピクトリアルの撮影とかで忙しくて・・・」 -- 2015-07-17 (金) 18:05:46
  • 金剛と提督に怒られて ひえー状態かw -- 2015-07-18 (土) 09:38:48
  • この後の作戦がソロモン関連らしいと考えると比叡が水着用意できなかった理由がわりとシリアスな話なんじゃないかと思うと・・・ -- 2015-07-18 (土) 18:07:36
    • わりとシリアスな状態にある妹を差し置いて姉は「すぅぁまぁヴぁけぃしょぉん!」と叫んでる訳か。 ちょっと霧島さん呼んでくる -- 2015-07-21 (火) 10:28:28
      • 残念ながらソロモンは霧島にとっても比叡を失った翌日に自分も沈んだっていう重要な海域なのだ・・・ -- 2015-07-22 (水) 19:43:17
      • ヤクでもやってんだろあのヴァカ戦艦 -- 2015-07-23 (木) 16:50:01 New
    • 組長はソロモンと聞いてカチコミの準備が忙しいようです。 -- 2015-07-22 (水) 18:02:21
  • お願いします!貴方が出れば揃うんです!あとシスコーンじゃなければ一番好きです!だから出てくれー! -- 2015-07-20 (月) 03:48:34
    • 書(描)いたら出るってホントかも 連れて来てくれてありがとう霧島ネキ -- 2015-07-21 (火) 15:13:58
  • 大和測距儀のページからやってきたんだが、比叡って金剛型のギャグ担当ばかりで大和型のテスト艦だったとか御召艦だったとかそういうネタ一切拾われてないなw -- 2015-07-22 (水) 00:57:46
    • ウチは史実反映?で秘書艦比叡で大和建造したよ! -- 2015-07-22 (水) 17:59:01
    • なんか比叡のミニプラモのおまけの漫画では大和型と仲良くしてる小噺が入ってたけどそこ以外だとあんま見ないんよなぁ・・・ -- 2015-07-22 (水) 19:45:40
  • 金剛のswimming wareくらいは準備してあげてよ・・・ -- 2015-07-22 (水) 17:24:54
  • 東方クエ消化の為に4-2回ってるけど 比叡さん たくさん出てくるけど 何かのフラグかしら? -- 2015-07-22 (水) 21:32:43
  • 『『前部(一、二番)砲塔だけ』『後部(三、四番)砲塔だけ』での統制射撃を行うことが可能』とあるけど、これを艦これ的なシステムに落とし込むとどうなるん?後、大和型って主砲3基しかなかったと思うんだけど、後部も統制射撃できるん? -- 2015-07-23 (木) 17:55:38 New
  • ひえー元気いっぱいで和む -- 2015-07-25 (土) 19:59:34 New
  • 比叡と霧島の最期に関わった照月が来るわけだが、秋月と五航戦みたいな関係になるんだろうか -- 2015-07-26 (日) 02:39:53 New
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*1 後に国鉄総裁を務めた磯崎叡(さとし)
*2 先代「霧島」が当造船所初の戦艦で、「武蔵」もここ生まれ。
*3 なおこの造船所では長月卯月、原子力船「むつ」などが建造された
*4 皇族として絶大な権力を持ち、その威光はあの軍神・東郷平八郎と共に「神様と宮様」と評されるほどであった。
*5 当時の海軍省の通称、転じてデスクワークばかりで洋上勤務の少ない士官への通称
*6 自身の大将進級には反対し続けていた井上は、「負け戦 大将だけは やはりでき」と皮肉っている。
*7 1940年10月の紀元二千六百年特別観艦式
*8 当時海軍兵学校68期を卒業したばかりで伊勢に乗艦していた士官候補生、飛鷹の項も参照のこと
*9 もっとも、皇族故に昇進のスピードは異様に早く、一期先輩が戦艦の砲術長を務めるのは2年後であった。
*10 通常、戦艦の砲術長は中佐である
*11 1904年、日露戦争中の旅順口攻撃における出来事。4月13日、旅順艦隊の旗艦ペトロパブロフスクが機雷に触雷し沈没、ロシア海軍きっての名将マカロフ中将が戦死した。5月15日、今度はロシア側が仕掛けた機雷によって戦艦「初瀬」「八島」が沈没。日本は虎の子の戦艦二隻を瞬く間に失った。
*12 海軍兵学校44期を三番で卒業している恩賜組
*13 一般に比叡を雷撃したとされる雪風だが、比叡を空襲から守る対空戦闘の際に水雷長が頭部に重傷を負っており(快癒せず戦後逝去している)、雪風で指揮を執っていた司令官もそれを知っていたため、雪風には魚雷を準備すらさせていない。
*14 宇垣は最初は黒島と似た考えで比叡を当面放置しようとした。
*15 黒島は真珠湾攻撃作戦の立案などその奇才ぶりが山本に寵愛された参謀であり、その一方で参謀長の宇垣は着任当初は山本に疎まれて司令部内で軽んじられがちだったという。
*16 (初代)蒼龍
*17 海軍大臣旗、将旗、代将旗及び先任旗
*18 海上自衛隊でも天皇旗を始めとした皇族関連旗は全て制定されているが、掲揚規定が無く、この時も「皇族旗」の掲揚は特に行われていない。尚、掲揚規定が無い理由は「皇族が自衛艦に乗艦される事を想定していない」からである。
*19 英国式スープカレーを振舞ったところ魔改造を施されて原型を無くされてしまって以来料理を振る舞いたがらなくなったというネタがあった。
*20 大型の艦ほど規律が厳しいか、またはいじめなどの規律の乱れが酷いかで両極端な傾向が強く、「霧島」への配属が決まった新兵が「霧島に乗るか自殺するか」と言う旨の歌を遺していた事もあった。